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富田城(とみだじょう)は、かつて伊勢国北勢地方の朝明郡に存在した日本の城。北勢四十八家の南部氏の居城。三重県四日市市富田地区の小城。所在地は三重県四日市市の富田1丁目24番地~26番地。 == 歴史 == *富田城の前身は『吾妻鏡』には、1204年(元久元年)、三日平氏の乱の際に伊勢平氏の一党である進士三郎基度が、富田の地に館を築いたとされる。1446年(文安3年)に、南部三郎行直の子と古文書に伝わる南部修理太夫頼村が信濃国野沢庄より伊勢国朝明郡富田に移住して富田城を築いた。頼村は室町幕府、その後伊勢国司の北畠家に服属した。南部氏は代々富田の神仏を尊び地場産業を興して富田発展の基礎を築き、領民から親しまれる領主だった。富田六郷の東富田村・西富田村を統治して周辺の富洲原地区の富田一色村・松原村・天ヶ須賀地域にも影響がある領主であった。近隣の蒔田村には蒔田城と同じ富田地区の茂福村には朝倉氏の茂福城があった。茂福城と羽津城の領主との間に茂福合戦があった。頼宗、頼武、頼連、兼綱と室町時代及び戦国時代の120年余りの期間に富田の地を支配して、北勢四十八家の一つに数えられた。しかし、1568年(永禄11年)富田南部氏5代目兼綱の代に、織田信長の伊勢侵攻により富田城は落城して兼綱は自刃して富田城主南部氏は滅亡した。 *富田城は廃城となり、兼綱の孫の甲斐守忠次は仏門に入り現在の富田地区の蓮光寺を開基した。弟の甚八郎忠明もまた仏門に入り四日市市堀木の専念寺に入った。〔ふるさと富田21ページ1行目~9行目〕 == 現在の富田城 == *現在の近鉄富田駅東側の四日市市立富田幼稚園付近を中心に、四日市市立富田小学校と近鉄富田駅周辺の富田茶屋町付近にあったとされる。近代化による富田地区の市街地化により富田城の地割も跡形もなく消滅してしまった。中世の富田城の名残として富田幼稚園の運動場には銀杏の古い木が残存している。朝明郡富田の地籍図によると、南方にある茂福城に形状が類似していたという。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「富田城 (伊勢国)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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